名前がなかった | 水面からめくりとった水びたしの月

名前がなかった

昔 名前がなかったころ
わたしたちは 空を翔べた
空と海の合わせ鏡が
溶けてまじりあう時刻
帰港が間に合わず
空中に取り残される小船
それを足場にして 空中へ飛び立った
水面からめくりとった
水びたしの月を
夕べの空に干しにいった
昼間のうちに
何百何千という木の葉から
ついばんでおいた光を
夜の空にちりばめにゆく
ハチドリの群れを追い越した
昔 名前がなかった頃
わたしたちは何にでもなれた
雨になって降り
月になって照り
時になって流れた

地球のいちばんなだらかな曲面を
滑降する風になった

神様の両手になって
宇宙空間をただよう
蒼いゆりかごを揺らした

小惑星の胞子になって
新しい命を育んだ

わたしはあなたより先に
化石にならないと誓った
あなたは少しだけ下の地層で
わたしの夢を
みてくれているだろうか

心で分かり合えたから
言葉はいらなかった
大地とも星とも話せたから
名前はいらなかった

あの頃 
誰にも名前がなかった
誰も だれかを憎む
ことを知らなかった