とおい まひる | 水面からめくりとった水びたしの月

とおい まひる

慢性腎不全です
うわごとを言っています
そばについていてください
看護士に命じられたとおり
処置室のベッド脇のパイプ椅子に
私はじっと動かずにいて
脳に毒素のまわった母の
錯乱の中に住まう

<いってらっしゃい> と母が
どこへも行かない私を送り出す
いってきます と その場にとどまる
<私はお相撲をとりに行ったのよ>
そうなの 疲れたね ゆっくり休んで

<遊園地で迷子になったの
子供が迷子になったの
上の子と一緒に
おとぎ列車に乗ってる間に>

はい その迷子は私です

母の夢の中で
五歳の子供になって
早くみつからなければ

あせっても
夢の入り口が
みつけられない

<泣いたり 動き回ったりしたら
迷子と間違えられるから
そこで待っててと言ったのに
きっと 泣いたのね
恐くなって 私たちを探したのかも
世話のやける子
お兄ちゃんは いい子なのに>

お兄ちゃんみたいにいい子じゃないけど
私も お母さんの子供にして
お兄ちゃんみたいに勉強できないけど
私も お母さんの子供になりたいよ

時間がソーダの泡のように
少しずつ 空に溶ける
おとぎ列車のレールが
鈍い銀色の熱線を放つ

<どうしよう
あの子がどこかで泣いてる
本当はやさしい子なの
私が足の小指を怪我したら
あの子は言ったの
痛くない指と替えてあげるって
あの子をおいていかなければよかった>

ワタシハ ココダヨ
ワタシハ ココダヨ

記憶の中 春の終わり
風のない とおい まひる

夢の入り口が
みつけられない